2025年04月04日

「近世随筆翻刻書目データベース」のリリース

ものすごく久しぶりに書き込む。
x(旧Twitter)ではちょこちょこ新刊本紹介などをしているが、なんとなくそれで書いた気になっている。ただ、しっかり書きたいときはやはりこのブログが必要だ。

さて、今日は「近世随筆翻刻書目データベース」なるものをリリースしたので、その紹介を。
データは、「閑山子LAB」の「電子書庫」から入手できる。
https://www2.lit.kyushu-u.ac.jp/~kawahira/#library

本データベース(以下DB)は、『日本随筆大成〔新装版〕』『未刊随筆百種〔新版〕』『随筆百花苑』などの随筆叢書に収録された、近世随筆の翻刻書目一覧である。対象とした随筆叢書は上記をはじめ29種、収録されている随筆書目はのべ1912点(2025年4月4日時点)。

このDBを作ったわけを簡単に述べる。

たとえば皆さんは、こんな経験をしたことがないだろうか。

「国書データベース」で、安藤為章『年山紀聞』を検索したところ、末尾に「〔活〕日本随筆全集六・日本随筆大成二期八・百家説林続編上」と書いてある。そこで、とりあえず最も見やすそうな『日本随筆大成』で見てみようと思って、書架にある『〔新装版〕日本随筆大成』を手に取ろうとすると、「国書」で表示されている第2期8巻には入っていない。新装版では第2期16巻に入っている。

あるいは、柳沢淇園『ひとりね』を検索したところ、末尾の活字翻刻情報のところに「燕石十種二」とあったので、手元の『〔新版〕燕石十種』(中央公論社刊)を見たところ、巻2には入っていない。新版では巻3に入っている。

さらに、中川三柳『醍醐随筆』を検索したところ、末尾の活字翻刻情報のところには「〔活〕杏林叢書三・百万塔」とある。しかし、手元にある『続日本随筆大成』第10巻の情報は記されていないから、それに気づかず、「百万塔」の誤植だらけの古い翻刻を利用してしまった。

こうした齟齬の原因は、「国書データベース」の複製・活字情報が、その前身となった「国書総目録」の段階から、基本的にはアップデートされていないからである。つまり、昭和50年ごろ以降に修訂・再刊された随筆叢書類(上でいえば『〔新装版〕日本随筆大成』『〔新版〕燕石十種』など)、あるいはそれ以降に新たに編集・発刊された随筆叢書類(上でいえば『続日本随筆大成』など)の情報は、基本的に反映されていないのだ。

これは「随筆」だけに限った話ではなく、すべてのジャンルに共通する問題なのだが、とりあえず「随筆」については、今回作ったDBによって、そのストレスを少しでも軽減できるのではないかと思う。

また、Excelで提供しているので、データをいろいろな見地から並べ直しみると、なんらかの新知見が得られるかもしれない。

posted by 閑山子 at 12:17| Comment(0) | 机辺雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年11月21日

安永天明俳諧の研究

田中道雄氏『安永天明俳諧の研究』(和泉書院、2024年10月)が出た。
『蝶夢全集』正・続篇を完成させ、満を持しての刊行ということになる。

本書は論文と雑纂(一般向けの小論)、そして「文筺より」と題されるエッセイ集からなる。
論文は、修士論文で取り上げられたという三宅嘯山、メインである蝶夢、そして蕪村およびその他の俳人にかんする諸論が集められる。

が、驚くべきは、附録として「”古池や―”型発句の完成 ――芭蕉の切字用法の一として」という、卒業論文を改稿した論文が収められていることである。田中氏は本年で御年92歳。とすれば、70年近くも前の論文ということになる。

本論文は、上五が「~~や」という形になっている発句が、連歌をふくめ歴史的にいつごろから見られ、芭蕉がそれをどのように受容・脱却したのかを論じたもので、膨大な用例を取りさばきつつ、統計的に考察を進める。「卒論」からどれくらい修正の手が加えられているのか分からないが、昨今あまり見受けないスケールの大きな論文である。

田中氏はもともと、学部時代は理系であったらしい。氏の「文学」、とくに「詩」にたいする情熱は、普段の言動や論文のなかにときどき垣間見られて、それが良い味を出しているが、同時に存する分析・考察の明晰さは、この理系的な素養に発するものかもしれない。そのことを、この恐るべき完成度の「卒論」が示している。

いまだ通読はできていないが、おそらく本書の核と言ってもよい「発句は自己の楽しみ」という蝶夢論は、ひとり蝶夢の俳諧を論じたものではなく、日本の詩歌史にまたがる、詞(ことば)と情(こころ)の関係が問われている。前近代から近代にかけて、「詞>情」から、「詞<情」という方向に流れていくのであるが、蝶夢はまさにその潮目が変わるところに存在したというのが結論である。採集した蝶をルーペで観察して、そこから自然界の雄大な法則が見えた瞬間のような喜び。それが伝わってくる論文である。

若い研究者にはぜひ読んでもらいたい。
posted by 閑山子 at 12:29| Comment(0) | 机辺雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年11月07日

仮名読物史の十八世紀

飯倉洋一氏『仮名読物史の十八世紀』(ぺりかん社、2024年11月)が出た。

「仮名読物」とは氏の造語で、いわゆる「近世小説」と、教訓書・軍書・随筆といった「圏外文学」(幸田露伴の命名による)を包摂した概念という。著者がなぜこのような概念を使うかというと、簡単に言えば、「小説」を中心におく近世散文史のイメージではとりこぼしてしまう(あるいはうまく位置付けられない)「小説」周辺の作品が、あまりに多いからだという。
そこからすると、近世初期の小説に位置付けられる「仮名草子」という概念は、そういった「圏外文学」をもある程度取り込んでいるので、ここでいう「仮名読物」と近いのだが、しかし「仮名草子」は、一般的には、近世初期の小説という歴史的概念として定着している。よって「仮名草子」概念を18世紀まで延伸するのでは混乱を招く。そこで氏は、「仮名草子」をも含めた新たな概念として、この「仮名読物」という概念を構想するのである。

なぜそうする必要があったのか。それは「談義本」という、「教訓」と「小説」が融合したようなジャンルをどのように取り扱うか、という問題が核にあると思われる。仮名草子→浮世草子→読本とくれば、なんとなく発展的に理解がしやすい。ところが実際には、仮名草子→浮世草子→「談義本」→読本という流れとなっており、なぜ「談義本」がこの位置にくるのか、これをどのように説明するのかが難しいのである。
そこで先人たちもいろいろ試行錯誤を重ねてきたのであるが、飯倉氏はここに「談義本」を核としつつ、その周辺領域をも含めた概念として「奇談」という領域を仮設する(先ほどの「仮名読物」との関係でいえば、「奇談」とは、より「小説」周辺に焦点を絞り込んだ概念ということであろう)。これは当時の本屋が出版した『書籍目録』の分類を参考にしている。そうすることで、浮世草子→談義本→読本の図式の謎が明らかになるというのである。書物の外形的なフォーマット、語りの構造などに、たしかに共通点が見いだされる。

また、これら「奇談」によく見られるのが、「寓言」という手法である。なかでも、思想や教訓を寓する伝統的なそれではなく、和漢の歴史や文学に関する自説を寓する「学説寓言」(これも飯倉氏の造語)が、この時期の「奇談」の特徴であるという。
以上のことは、本書の第二部・第三部で論じられていて、これらが本書の屋台骨となっている。

中野三敏氏は、西鶴戯作者説を唱えた。この部分だけをとらえて、ちょっとした論争になったりもしたが、もともとそれは、近世小説全体を広義の「戯作」と称してはどうかという、もう一段大きな文学史的な構想のなかで論じられた、一つのトピックであったのだ。中野氏は具体的にはそこまで論じることなく亡くなったが、飯倉氏の研究は、中野氏とは別の角度からではあるが、その気概を受け継ぎ、丁寧に考察を重ねたもののように思われる。

最後に無いものねだりを。本書は今後、この分野を研究するさいの土台になっていくことは間違いない。そににはこれまでの文学史において取りこぼされてきた、たくさんの、そして多くは無名の、「奇談」本が取り扱われている。それゆえに、索引がないのは残念だ。
posted by 閑山子 at 13:04| Comment(0) | 机辺雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年09月27日

台湾行紀

コロナを挟んで、2019年以来久しぶりの海外調査に出た。台湾大学図書館長澤文庫である。
鹿児島大学の亀井森氏が代表をつとめる科研の一環。私は長澤伴雄の「随筆」を中心に調査した。

期間中のある日の昼休みには、2月11日のブログに書いた、浅香久敬の子孫旧邸を改修した茶館「紫藤廬」にも伺った。小さな急須のなかの茶葉は、湯を注ぐたびに次第にほどけ、味や香りが微妙に変化していく。その風味のグラデーションを楽しみながら皆と談笑するゆったりとした時間は、日本での日常生活ではなかなか味わえないものだ。

帰国直前の時間を利用して、これを書いている。あと30分後にはホテルをあとにして、また俗塵の世界に戻られなければならぬ。
もっとも、滞在期間中もネットやメールでふだんの「仕事」をし、俗塵とは常につながっていたわけであるが…。
posted by 閑山子 at 11:33| Comment(0) | 机辺雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年08月03日

武人儒学者 新井白石 正徳の治の実態

藤田覚『武人儒学者 新井白石 正徳の治の実態』(吉川弘文館・歴文化ライブラリー、2024年7月)を読む。

拙著『武士の道徳学 徳川吉宗と室鳩巣『駿台雑話』』(角川選書)とほぼ同時に刊行された。新井白石と室鳩巣は同じ木下順庵門下。将軍家宣・家継体制の顧問が白石、その失脚後、将軍吉宗の顧問となったのが鳩巣であった。その二人の学者の評伝がほぼ同時に刊行されたというのは、奇妙な偶然である。

木門というのは、とくに学派的性格をもった集団ではない。なので同門とはいえ、白石と鳩巣とはかなり学問的性格が違う。ただ、同じなのは武士の出身ということだろうか。いつでも腹を切る覚悟で生きていたように見える。メンタル的には通じるものがあったのではないか。

さて、本書を通底する視点は、「公(京都・朝廷)と武(江戸・幕府)の対立」という構図のなかに、白石がどのように位置づけられるか、ということだ。もちろん白石は「武」側におり、その意識の強さが本書で強調されるところであるが、この「公武対立」の視点は、鳩巣にはあまり見られないように思う。鳩巣は武家独自の制度の確立などを考えるよりも前に、まず武士は勉強して教養を身に着けよと言う。順番が逆だというのである。白石は政治家だし、鳩巣は教育者なのだと、あらためて思った。

また、とくに面白かったのは、白石とは少しズレてしまうが、霊元天皇のことである。文学の世界では、この天皇は和歌に堪能で、「霊元院歌壇」などと呼ばれる歌壇を形成し、さかんに詠歌活動を行ったことが知られている。それだけを見ると、なんとなく穏和な感じがするのだが、しかしこの人、政治的には公武双方において、かなりの取扱注意人物であったようだ。この点は、17世紀初頭の後水尾天皇や、19世紀初頭の光格天皇などとも通じる。文学と歴史とで、見えてくる人間像が変わってくる。このあたりのことも、もっとしっかり勉強していきたい。
posted by 閑山子 at 19:00| Comment(0) | 机辺雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする