随分前に読了し、ぜひここで紹介したいと思いながら、諸事あって今になった。
中途半端に書きたくないという気持ちもあったから。
この本の、そして菱岡氏の「凄み」を感じ取ったのは、やはり第一章である。
小津久足には、豪商、国学者・歌人、蔵書家、絵画コレクター、といった様々な顔がある。雅俗の会の研究会などを通じて、菱岡氏の久足研究をあらあら知っている私は、久足ならば経済・文学・思想・美術など様々な角度から切り込みが可能なので、ぜひ新書のようなサイズ感で、その魅力を広く一般に紹介してはどうかと慫慂した。もちろん、氏がそういった文章の才に長けていることも承知していたからである。
とはいえ、やはり経済の部分は「まえがき」などでさらっと触れる程度かと思っていた。ところが、である。氏は経済史、殊に久足の家業である干鰯商に関する専門書を何十冊も読み込み(参考文献を見よ)、一章分(約60頁)を割いて、久足がどのような生活基盤および生活信条のなかで、あのような文筆活動や蔵書収集を行っていたのかを闡明した。そしてこの章が、本書のボトムをしっかりと支えているのである。
これは普通の近世文学研究者ではなかなか真似できないところで、その徹底ぶりにはただ戦慄を覚えるしかない。これについては後日本人から、歴史学者と対等のレベルで論じたかったのだと聞いて、その「凄み」の淵源を知った。
さて久足の文学・思想史上の面白さは、「国学離れ」にあると思う。はじめ本居派の教えを受けながら、あるときその「国学」を否定し、京都の妙法院に集った人々(いわゆる妙法院サロン)の文事に憧れるようになる。小沢蘆庵、伴蒿蹊、上田秋成などである。しかし久足は、彼らを慕いつつも、彼らとはまた一線を画した独自の文芸観を持っている。そしてそこには、近代人顔負けの強烈な自我意識が見られる。
だが、ここが面白いところであるが、久足はそれを、近代人のような形では発現・解放させることはない。そこに彼の、商人としての生活基盤および生活信条の問題が関わってくるのである。第一章の「凄み」が、ここで効いてくる。
いろいろ書きたいこともあるが、とりあえず最後にひとつだけ。
本書で展開される論点は、中村幸彦・中野三敏両先生の雅俗論、板坂耀子先生の紀行研究、飯倉洋一氏の妙法院サロン研究、田中道雄先生の蝶夢研究など、九州大学と関わりある人たちの研究と多くの接点を持つ。私にとっては馴染み深い、それらの研究が次々に絡んでくるさまは、まことに嬉しいことであった。それと同時に、菱岡氏が久足に出会いそこに魅力を感じたのも、ある意味必然であったのかもしれない、などと考えつつ読んだ。
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